2、だまされるな!自分自身に ―「当世はやりの墓」の問題点―
いま、普通につくられている「当世はやりの墓」は、おおむね次の手順で建てられている。
@ 墓地を買い求める。
A 巻石(外柵)工事ををする。
B 墓石を建てる。(文字の彫刻は、サオ石の表面に「○○家之墓」とし、裏面に「平成○年○月吉日 ○○□□建之」とする)
C 霊標 を建てる。(ここに法名・戒名・俗名等を彫刻する)
D カロート (納骨室) を設ける。
E 遺骨 (火葬骨) を納める。
F 僧侶をたのみ開眼法要を営む。
以上は、現代人の「お墓の常識」に基づく典型的な「墓のつくり方」である。大方の人は、これを「よし」としている。何の疑問も抱かない。
しかし、当世はやりの墓には、大いに問題がある。次に、それを指摘してみよう。
(1) 石碑と石塔
石碑と石塔は同じではない。
石碑とは、記念碑のことである。たんなる石造物といってもいい。誰かを顕彰することはできても、霊魂の依代 (よりしろ) にはなりがたい。
石塔は、石塔婆 (いしとうば) の略。塔婆は卒塔婆 (そとば) の省略形。卒塔婆の語源は、お釈迦様の遺骨を八つに分けて崇 (あが) め供養
(くよう) したストゥパー (仏舎利塔) 。すなわち、石塔とは、仏菩薩 (ぶつぼさつ) とホトケ (死者) の依代 ( よりしろ) であり信仰の対象物なのである。当然、墓は石塔ではなくてはならない。
ところが、宗教的シンボルのない、当世はやりの墓は、ただの石碑にすぎず、信仰の対象になる石塔ではないのである。当世はやりの墓を石塔にするには、家宗のシンボルを表現しなければならない。
(2) 霊魂の依代
墓石のどこに霊魂が宿るのであろうか。
普通、サオ石に宿ると考えられている。また、法名・戒名を彫刻したところに霊魂が宿るとされている。
こう考えると、当世流行の墓では、法名・戒名をサオ石に刻まず、副碑たる霊標 に彫刻しているので、霊魂は霊標 に宿り、サオ石には宿らないことになる。
すなわち、「霊魂の依代」という面から見ると、当世はやりの墓は、霊魂が宿るべきところに宿っていない、主客転倒した墓ということになる。
(3) 祭祀の継承・家の相続
当世はやりの墓では、建立者名が、たぶん、お金 (建立費用) を出した兄弟姉妹か夫婦なのであろうか、複数名になっている場合が多い。
建立者名が複数名だとお墓に対する責任感が拡散する。これでは、祭祀の継承ひいては家の相続が弱いものになる。
建立者名は、祭祀を継続し、家をまもり相続していく人一人だけの名前にしなければならない。また、建立者名の彫刻場所は、霊魂の依代たるサオ石にしてはならない。
(4) カロート (納骨室)
納骨室は、この世で目にすることができる唯一の「浄土・聖地」である。
当世流行の墓では、清浄であるべき、この納骨室の造りが雑なことが多い。
ブロックやコンクリートではだめ。お墓と同じ耐久性のあるミカゲ石を用いなくてはならない。
納骨の仕方には、二通りある。
一つは、骨壷のまま納骨室に収める。この場合は、納骨室を人一人入るぐらいの大きなサイズに造らなくてはならない。また、水が底にたまらない工夫も必要になる。
もう一つは、遺骨を骨壷から出してサラシの袋に入れ、納骨室の底の土中に埋める。遺骨を大地に還元するのだ。もともと人間の生命は大地から生まれたもの。死後は遺体や遺骨が大地にかえるは自然の姿。大地にかえって、また子孫になって生まれ変われば、その家系は未来永劫に続くことになる。この葬法には生まれ変わりの思想が反映されている。
当世はやりの墓は、前者であることが多い。一考を要する。
(5) 写 経
当世はやりの墓には、写経 (お経を書き写した紙や小石) を納めるということはない。
仏教では、写経は最大の功徳になると教えている。実際、写経という行為は、ホトケ (死者) に手紙を書いているようなもの。ホトケ (死者) に対する想いを十二分に表現することができる。
お墓には、ホトケに手向ける写経を納めよう。写経は、家宗にあったお経を選び書写するとよい。
以上、誰もの頭にある「お墓の常識」で建てられる「当世はやりの墓」の問題点を列挙した。
これで、お墓の常識なんて当てにならないことがお分かりいただけたと思う。
「お墓の常識」に固執して、その想いのままにお墓をつくる人は、自分自身にだまされながら建墓することになるのだ。
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